今回の反省

「書く練習はしなくていい」ようなことを言われた気もするけど、やはり凡人かつ無教養な人物としては書く練習をしなければ課題を提出できない。

発散させ過ぎた

今回の反省はまず発散させ過ぎたということ。
イデアは出てはきたものの、それを選択して煮詰めてみるところまではできなかった。結果として、発散させたものを収束させる過程でかなり姑息さは否めないまとめになってしまった。また、当日まで発散させつづけ、構成も考えられていなかったために余計に時間を食うことになった。

最初に自分内でブレストをするという作業には一度自省のフィルターを通した方がいいんじゃないかという気はするが。)

「文章を書く」のも「映画のシナリオを作る」のと同様と考えていいだろうし、ひいては「ものづくり」にもつながってくる?開発プロセス(1)のようなプロセスが考えられてしかるべきなんだろうか。

そうだとすると、どういう作文プロセスが求められているんだろうか?

まず頭の中で構想→構想が固まったら執筆、というのが理想なのだろうか。
しかし厄介なのが、執筆という行為自体が事前の構想を(良くも悪くも)曲げるということ。

それはいわゆる「身体性」とはやや異なるかもしれないが、例えば漫画家が予定していたストーリーを描き進めていく過程で勝手に変えてしまうとかそういう話に近いかもしれない。

別に批評に限った話ではないだろうが、エッセイにせよ、コラムにせよ、小説にせよ、学術論文にせよ、執筆は構想に影響する契機となりうる。原稿に書き込まれて"物"化された言葉が、新しい発想を呼び込んでくる。学術論文においては、その新しい発想は次回の研究に委ねることになるだろうが、非・学術論文においてはその新しい発想は決して拒絶されない(たぶん)。それどころか、そのダイナミズムこそが批評に不可欠な要素とみなされることさえあるかもしれない。
#しかし、それを受け入れた上での作文プロセスというのは定式化が困難というか…。

話がさらに発散してしまったが、要は発散させ過ぎる前に提出原稿を作り始める必要があるということ。執筆が新規の概念を呼び込んでくるとしても、いずれは収束する。その時間をあらかじめ経験的に見積もって作文しろ、ということなんだろう(強引にまとめ)。

もともとやりたかったこと

前提だけど「批評」を書くこと。「サスペンスフル」にするのは最後でいいと思っていた。

ちなみに、「サスペンスフル」にするには、前提として文章の書き方によって人にサスペンス映画を見ているような気持ちにさせること。これには一つ、とっかかりがあった。
東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』(2)を読んだ時に、ミステリに触れたような手応えを感じたことが、「サスペンスフルな批評」という、一見不思議な課題に対しても自分的にはしっくりくるところがあった。

#時間があれば、どういう表現によって読み手にどういう印象を与えられるのか、をまとめたかったのだが、残念ながら全く着手できなかった。

次回の講師である三浦哲哉の『サスペンス映画史』(3)を読んだので、それを参照したいというのもあった。『サスペンス映画史』では映画におけるサスペンス要素について時系列で分析しながら扱っていたので、自分が書きたいことのサスペンス性が歴史上どこに位置するのか、ということについて間違いなく参考になるだろう(あるいは、無理やり紐付けよう)と。

そもそもサスペンスって何?というのもあったし。
「現代SFサスペンスの「あざとさ」」という概念については使えそうなネタだったし、これはいかにも批評っぽくなるのでよいかなとは思っていた。
というのが、「現代SFサスペンスの恣意性」という問題が、今回の課題のテーマとした『がっこうぐらし!』のサスペンス性の問題点を指摘しているように思えたから。かつ、この「恣意性」は、『がっこうぐらし!』の「日常」は(当然ながら)由紀を支点(視点ではなく)としたものであって、作者の恣意性を支点としたものではない——作者の恣意性に直接依存するものではない、ことを書ければいいかなと思った。

また、先述した『セカイから…』の主張ともちょっと絡めたかった。「オタク系作品の特徴は、その物語や人物造形が現実をほとんど反映しないこと、むしろ、現実の政治的葛藤や社会問題をできるだけ無化するように作られていることにあ」るという東の主張(6)については、「がっこうぐらし!」は実は例外ではないか、日常系という体をとりつつ、例えば安保法制であったり、東日本大震災であったりといった社会問題がもはやそういったアニメーションの消費者においても無視できない、現実逃避し続けられないことを暗に主張しているのではないか、という指摘をしたかった。そこで宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(7)を持ってくるのも必須なのかもしれないが…。宇野を持ち出すと東の観点がリセットされてしまうというか、逆にまとまらないか。

もう一つは、『がっこうぐらし!』の原作者である海法紀光がシリーズ構成を担当したアニメ『ガンスリンガーストラトス』(8)における海法の解釈を加えればよりよいものに成り得たんじゃないかという反省はあった。これについて、そもそも『ガンスリンガー…』を観ていなかった&観る時間がなかった、というのが致命的であった。

さらには『日常系アニメ』との比較。これについては『日常系アニメ ヒットの法則』(9)という書籍が出ていたので図書館で借りてきたのだが、残念ながら参照できなかった。人のことは言えないけれども、日常系アニメそのものの内容については中途半端過ぎて。「ヒットの法則」といっても全然説得力なかったです。

こういう手つきというか、批評の方法というのはまさに型なんじゃないかなと思って、とにかくまるでわかっていなかった状態から比較すると3回目の課題として、少しずつ「こうやればいいのかな?」というのがなんとなく暗中模索の中、つかめかけてきている感覚がある。

また、ニコニコ動画(以下、ニコ動)での盛り上がりについても、第3回目の講義で触れられていた渡邉大輔の「映像圏」(9)という概念を借用して議論を広げたいという気持ちもあった。最近特にアニメとニコ動との連携というか相互補完振りは、テレビアニメの次の新しい概念を作り出している感じすらある。

逆に、こういうことを書かないと批評としてそもそも型から外れているという話にもなりかねないと思っていたのだが、最終的に構成上、あるいは文章を整える上で、どれもうまく織り込むことができずに断念。その辺のドラフトから全部除く羽目に。結果として「エッセイ」と成り果ててしまった。反省と後悔とが強くあります。

アウトプットは?

では、それらの批評チックな材料を省いた肝心のアウトプットはどんなものになったのか…?タイトルが『窓は割れていないか?』だったが、この言葉が浮かんだときになまじキャッチーだったので、惹かれてしまったのが運のツキだったのかもしれない。
『がっこうぐらし!』というのは当初はネタがなくて苦し紛れというニュアンスがなくもなかったのだが、振り返ってみると批評的な作品といってもいいのではないかと思う。これについて考えてみると、案外ネタが尽きない。だからこそ、シンプルに語ることは難しかった。

この作品自体は日常系ではないが、由紀自身はまごう方なく日常系の世界を生きている。そしてその世界が『がっこうぐらし!』というタイトルにも表れている。しかしそれは、現実から浮遊した——サスペンドされた世界である。我々の住む世界もまた、実はそうなのではないか?作品内において、そのサスペンドされた世界は人工的に延長させられており、果たしてその由紀の日常系がどうなるかはまだわからない。しかし、日常系の欺瞞に惑わされてきた我々の視点を真の現実へと向けるこの作品のメッセージは、震災を体験し、生きているということは自然の力によって余りにも呆気なく失われることを実感させられ、また「戦争」がより現実化してきた現代の日本人にとってよりリアリティをもって響いてくる。

はい。結局エッセイです。ちなみに『がっこうぐらし!』試論とサブタイトルにつけたが、その『試論』という言葉はむしろ「エッセイ」という原義に基づく自虐的、反省的なネーミングです。東浩紀ソルジェニーツィン試論』とか、松浦寿輝エッフェル塔試論』とか、そういう大先生の著作を連想させてしまうという意味はあるけれども、そっちは承知の上です。

 

 (1) 外部設計・レビュー→内部設計・レビュー→実装・レビュー→単体テスト結合テスト→総合テストなど、例えばそんな感じ

(2) 東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』東京創元社、2013年

(3) 三浦哲哉『サスペンス映画史』みすず書房、2012年

ちなみに、『サスペンス映画史』を読むのと並行して観たサスペンス映画は2.5本で、『サイコ』 (4)『羊たちの沈黙』と『メメント』(面白かったのだけど途中まで観た段階で期限が来て、課題提出までに見る時間もなさそうだったのでそこで中断。もう一本借りた『バタフライエフェクト』は結局見る時間なし)でした。ただ、『がっこうぐらし!』がタイムリーだったのと、その辺りの映画は著名過ぎて自分が今から批評を付け足したとして全て言い尽くされているかあるいは大幅に外すかどちらかなので回避しました(5)。

(4) 『サイコ』については『サスペンス映画史』のヒッチコックの章で、サスペンス的な意味での頂点を過ぎていたみたいなこと言及されてましたね…。『めまい』とか借りてくればよかった…。

(5) それなら最初からそんなメジャーどころを借りるなって話なんだけど、そこが自分の欲張りなところで、「メジャーを確認してから」という現実離れした欲望がそこにあったことは間違いない。

(6) 『セカイからもっと近くに』、「はじめに」

(7) 宇野常寛ゼロ年代の想像力早川書房、2011年

(7) (公式サイト)

(8) キネマ旬報映画総合研究所『"日常系アニメ"ヒットの法則』キネマ旬報社、2011年

(9) 渡邉大輔『イメージの進行形』人文書院、2012年