第11回の反省

平倉さんの講評は自分(豆生田)の文章の説得力の欠如を痛烈に指摘していた。
ライフ・オブ・パイ』におけるリチャード・パーカーの立ち位置が《絶対他者》であったことは、論証するまでもなく自明だという思い込みが、この批評文の独善性に繋がってしまった。

「もうひとハッタリ」的な工夫はさて措いて、それ以前の文章としての洗練を指向する方がよいのではないか。このブログの記事についてもそうだが、全く批評らしからぬ幼稚な文章——語彙力の低さ、表現力の低さ、レトリックの弱さは、先に対処すべきだったのではないか。それに対する怠慢が文章の説得力を頭打ちにさせているのだ。第2回の講義で東さんが最初に語っていたことを、今更痛感している。

 

表現を変えることは、いわばリファクタだ。リファクタは機能は変えないが、メンテナンスにおいて雲泥の差をもたらす。批評においてはどういう効果を持つのか?

言いたいことは「書き上げたらリファクタしよう。」
そして「リファクタする時間を作り出すような書き方をしよう。」

リファクタする前に無理やり言葉をひねり出そうとすると、安藤礼二さん曰く「自家中毒」に陥る。実感としてその言葉を使えるようにならなければ。

 

必然性/アクチュアリティと倫理性(エチカリティ)。
必然性やアクチュアリティについてはこれまでもしばしば語られてきたことではあるし、受講生の一部はかなり問題意識を持って取り組んでいたものと思う。が、今回は特に全員の課題に対してコメントされたことでより強調された。
面白かったのは倫理性の方。言葉は暴力的な側面もあるわけだから、倫理性を意識する必要もある。こういう指摘は新鮮だった。