批評の面白さとは

自分はこれまで批評をまともに読んだことがなかった。だから、批評再生塾に入ってから全く新しい世界に触れた、といって決して過言ではない。
こんな面白い文章のジャンルがあったのか。素直にそう思ったのだ。まさに自分が求めていたタイプの文章がそれだった。ちょうど、自分が大好きなアニメが正当に評価されていない時に自分がなんとか表現したかった時に、僕が多分書きたかったのはこういう文章だった。

なんでそれは面白いのか?
それは思いの外、わかりやすかったからだ、というと語弊があるだろうか。個性のある、血の通った、読ませる文章。卓越した読解力で、一見何でもない作品の裏を抉り出す鋭さ、巧みさ。決して言葉遊びでもジャーゴンに塗れた世界でもなく、また数字やデータを使うでもなく、文章一本で全てを表現するその潔さ。

例えば東浩紀の『セカイからもっと近くに』。SF、ミステリ、アニメという全く異なる分野、一見関連がない作品群から、その裏に隠された統一した深層が見事に摘出されて提示された衝撃は忘れがたいものがある。まるでそれ自身がミステリー小説であるかのような批評。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』は自分の価値観を叩き潰すようなパッションと勢いと鋭さと強さ。それは何よりも、彼の卓抜した洞察力に支えられている。蓮實重彦の『フーコードゥルーズデリダ』。全く具体的な言葉を使わず、抽象的な言葉しか使っていないのに、しっかり地に足が着いているという恐るべき表現力。文章自体の絢爛豪華さ。時代が違うというのもあるが、これ程までに「批評」は輝いていた。浅田彰の『構造と力』。構造主義〜ポスト構造主義の哲学者たちの難解な思想を暴力的なまでに要約しながら、それでいて限りなく正解に近い(と言ってしまうのもなんだが)。弱冠二十六歳の時分の著作と聞いて、驚嘆するよりない。柄谷行人の『探究I』。もっとも学術論文的に見えていた文章ではあるかもしれないが、淡々と隙なくゆっくり進んでいき、その先にある障害は全てなぎ倒されていく。ペンの力を感じさせる。

自分の知っていた「学術論文」とは全く違う、極めて魅力的な文章がそこにはあった。
そしてやはり、それは作者の天才性に負うところが少なからずあったんだろう。

# 自分がかつて東方プロジェクトに対して感じていたものは、実は神主に対する尊敬だった。東方を通じて神主を見ていたのだ。だから作者の輝きが信じられなくなると、その著作の輝きはそれに従って失われることになる。批評に対しても同様に、自分は批評文を通じて批評家そのものを見ている可能性があるのかもしれない。

そういう「面白い」「批評」を書きたい。「面白い」だけでは自分的には不満がある。「批評」でなければならない。いや、僕が見た面白さは批評であることと表裏一体であったはずだ。そして、文章自体から彼らに学べることはいくらでもあるはずだ。仮に筆者が天才でもない場合、よい批評を書ける可能性は低いかもしれないが、偉大なる先人たちから学ぶことはできるのだ。