講義を受けて所感
サスペンスフルな批評として「小形式 image-action petite forme」と、ディスクリプション(場面描写)が必要だったかなという。
しかし登壇者の論考にそれがあったかというと?講師の三浦哲哉さん的には多少物足りなさがあったのかもしれないな。というより、三浦さんが選べばまただいぶメンツは違ったんだろう。横山さんは多分登壇しただろうが。
しかしディスクリプションというのはアニメの分析にはやや向いていない気がする。濃密な対象と空間と動作を描くのには必須だろうが。その意味で今回のテーマ選びは最初から失敗していた感もある。
#まあ、映画論だったらそりゃアニメじゃないよなあ…
それはともかく、今回印象付けられたのは
自分が読んで面白くないものは書きたくない。読者の体の中でもう一度何かを立ち上げる…それに相当するものを書けるか。次の何かに"飛び火"する。そういうものじゃないと書く意味がない。
30年後に読まれる本を書きたい。
一度忘れた後に、文章の運動で読んだ人の中に身振りが立ち上がるというか。
という三浦さんの発言。このあと、オートマティスム/ブレッソンの話に繋がっていったのだが、三浦さんは非常に控えめな姿勢で発言をされるので、あくまで「自分が書く姿勢」として以外積極的には語らずに留めているのだが、優しく控えめで淡々とした口調は、その強い信念と自信とパッションとを覆い隠せなかった。講師としても——直接口に出して発言はしないものの——そういうスタンスでいらっしゃると強く感じた。
そして、以下のような発言が印象に残った。
批評はとりあえず全開まで、作品の魅力を読み取って解釈してほしい
そう解釈するとこの映画は面白いんですかね?
ここで、自分の中でぼんやり形成されつつあった"批評観"がここに来て三浦さんの言葉を媒介にその一面が固定された感じがあったのだ。そう、「批評とは面白くなければならない」のだ。
(いうまでもなく、この三浦さんの発言と「批評とは面白くあるべき」という主張の間には一定の懸隔がある。三浦さんの発言を受けて「したがって批評とは面白くなければ」とみなすならば、勇み足の誹りは免れないだろう。)
三浦さんの発言は、あくまで「批評は作品の無際限の解釈の可能性の中で、最大限に魅力的なものを汲むべき」という趣旨なのだが、これまでの東浩紀さん、渡邉大輔さんの講義においてそういう指摘は(意外?にも)無かった。
三浦さんは食にも関心を強く持たれている。そして三浦さんにおいて、サスペンスと食もまた遠いものではない。曰く「食もまた小形式でしかありえない」と。人間の口が食べ物を全体として一度に摂取することはできない構造になっており、少しずつ部分に切り分けて食べていくしかない。つまり「味」において全体構造の鳥瞰は原理上不可能である。押し迫る味に対して人は「完璧に受動」であり、一口ごとに「身体が都度励起される」、「ディテールしかない世界」に魅力を感じているという。
批評においても三浦さんは食同様の価値観で捉える。「僕の中では鯵と同じなんですよ」
だから、提出された論考からの選択基準が「ネットに転がっていても読むもの」
であり「身体にくる」ものであるということはほぼ必然だっただろう。そして、そのような身体感覚と結びつける批評に対する審美基準は、批評というものが現代社会において置かれている立ち位置を意識していないとは言えないだろう。