浅田彰の《クラインの壷》周辺の議論

ソーカル事件と『「知」の欺瞞』を背景とした、10年以上前のこの論戦をごく簡潔に追ってみようと思う。

クラインの壷》を原義通り曲面として認識すれば(1)、山形の説は至極尤もな主張と受け止められる。ラッパの口から"内部"へと曲面に沿って辿っていくと、細長い管を通過して壷の内側とラッパの外側の間の空間に至り、ラッパの外壁を伝うと壷の"外側"へとシームレスに脱け出し、壷の表面を辿ってラッパの口に再び戻ってくる。しかし、浅田の議論における「貨幣」が、かように複雑な経路を経て循環しているようには到底読めない。これは浅田のクラインの壷に対する誤謬に基づくものではないのか。これが山形の主張である。浅田はこの山形の批判を「初歩的な誤解に陥っているのではないか」(2)と一蹴するが、数学者である黒木もまた山形を支持した(3)のである。

ここで、トポロジーの専門家である菊池は「「球面」は数学的文脈では球の表面のみを意味するが、容器と見なす非数学的文脈では中身も込めた球体を意味することもあり得る」(4)とし、「《クラインの壺》=〈中身の詰ったクラインの壺〉。クラインの壺クラインの壺〉+〈中身〉。そして,この解釈の下で浅田 [A] は自然に読める」(5)と、一見アクロバティックとも思える解釈を提示し、浅田のクラインの壷に対する理解を正しいとして擁護する。

〈中身〉とは菊池の文章に詳しいが、「クラインの壷」が「円周」の軌跡により構成された面であるのに対し、その「円周」を「円板」に代えた時にその軌跡——円板を持ち上げて表裏を反転させ、元の場所まで移動させた時の軌跡——が構成する4次元図形を指す。クラインの壷を普通に曲面とみなすと、曲面上の点は面に沿って壷の外側にこぼれ落ちてしまう。しかし、浅田の《クラインの壷》を〈中身の詰まったクラインの壷〉とみなすことで、〈中身〉における点の存在範囲に自由度が与えられる。部分的には「外側」「内側」が区別される曲面に対し、その境界を塗り潰したというわけだ。こう解釈することで、《クラインの壷》における循環運動はシンプルになり、メビウスの輪の曲面上を辿る点のように、一周毎にいわば表裏を反転させつつ(この反転自体はさして重要とは思われないが)循環することになるのである。

菊池は「いやしくも『「知」の欺瞞』の「ローカル戦」を標榜するなら,少なくとも『「知」の欺瞞』程度に慎重かつ周到であるべき」(6)としてこの論戦に臨んだようだが、通常、曲面と解釈されるであろうクラインの壷を、「中身の詰まったもの」と解釈する余地があるとして浅田の主張を見事に数学的に立証した「証明」は、図形における直観的な外見は措いて、その連続性のみに鋭く着目するトポロジストならではの観点に基づくものであり、感嘆する他ない。

浅田が実際このように捉えていたのかどうかはさして問題ではない。重要なのは、デリダの用語を参照するならば「痕跡」(『構造と力』)の「本体」(浅田の思想)は都度、解釈によって新たに構築されるということであろう。

一つ、この論戦においてとりわけフィーチャーされていない論点としては、「クラインの壷」を持ち出す必然性であるが、構造とその外部の二元論を超える立場を追求してきた『構造と力』において、内壁に沿って進むといつの間にか外に出ており、外壁に沿って歩んでいくといつの間にか内壁にたどり着き、内と外が二元論的に分別できない「クラインの壷」が、脱コード化された近代社会を解釈する上でこの上なく魅力的なモチーフであることは誰の目にも納得できるのではないだろうか(7)。例えば、ただの円筒では、その表面を移動する点は内と外を永遠に循環し続けはするものの、そこにおいて「内」と「外」はその両端において明快に区切られており、二元論を超える運動を象徴するモチーフとは成り得ないであろう。

 

(1) 「クラインの壷」は曲面からなり(元々「壷」も「面」の誤訳により一般化してしまった言葉らしい)であり、通常は曲面として解釈される。
(2) 浅田彰【『山形道場』の迷妄に喝!】』
(3) 黒木玄『浅田彰のクラインの壺について
(4), (5), (6) 菊池和徳 『浅田彰『構造と力』の《クラインの壺》モデルは間違っていない
(7) 菊池の解釈では、クラインの壷の内部のみを循環するという形になってしまうのではあるが。