ここ2回の講義と課題について

渡部直己さんの講義と、安藤礼二さんの課題、講義があったが、それについて全く言及できないままだった(※1)。

渡部直己さん講義

渡部回はテマティスム(といっていいと思う)の講義。
しかし、細部に宿る神を探せ、と言われた時に、テマティスムという言葉は実は全く頭に浮かんでいなかったという…。自分は西加奈子の作品をテーマに書いてみたが、当然ながらテマティスムとは全く関係も何もない。

印象に残ったのは以下の言葉。

渡部「批評とは再生すること。対象を良い方向に再生させる。くだらない対象が再生されても意味ない。対象の力を引き出す産婆術みたいなもの。」

渡部「作品の一番魅力的なところをかっぱらってきてほしい」

というもの。第4回の講義の三浦哲哉さんもやはり誰かの講評の際に同じようなことを言われ、それもまた強く印象に残っていたし、自分の心に特に響いた。

批評家や評論家が疎んじられるとしたら、批評/評論と題してまるで対象の揚げ足をとってその隠れていた欠点を曝け出すレビュー(※2)の生産装置に思われがちである、あるいは、レビューはするのに自身は作品を生み出さずに評論家という立場でケチをつけるだけで飯を食っている、というイメージが少なからずあるのではないか。

しかし、実際に批評再生塾に入って、批評の世界の内側を恐る恐る覗きこむ形になると、自分がこれまで思っていた評論とか批評とは全く異なる世界が広がっていた。ただ、思い返してみれば既存の自分が抱いていた批評に対するイメージ自体も実のところ茫漠としていた(なんでお前申し込んだんだよという話になってしまうが)ので、"世界観が覆される衝撃"とは違ったが、自分の知らない、凄く魅力的なものが詰まった世界を目の当たりにした感じはあった(※3)。

その上で、改めておもいっきりナイーブな視点で「評論」という言葉を見返すと、あるいは知らない振りして世間におけるそのイメージをなぞってみようとすると、世間的にはそういう、"頼んでもないのにわざわざ難しげに嫌なことをいう、気持ち悪いインテリ"辺りは一つの居た堪れない落とし所にもなり得るとは思う。

しかし少し中身を見聞するだけでも、そういうナイーブなイメージは雲散霧消する。あるいはそうまでは言わずとも、相対的な位置づけは位置づけは果てしなく低下する。

その理由の一つが、上記の「作品の一番魅力的なところを」という発言に端的に現れている。一度このブログでも言及したかもしれないが、三浦哲哉さんはこういった。

批評はとりあえず全開まで、魅力を読み取って解釈してほしい

渡部直己さんは文学、三浦哲哉さんは映画。お二方とも、その対象を愛しているのだ。そして、その表現として批評という手段を用いている。私はこれらの発言に、ビシビシそれを感じたのだ。私がこう「愛」なんていう手垢のついた言葉を迂闊にも(全く迂闊にも)使って表してしまうと、文字通りキモチワルイ響きを備えてしまうのが辛いところだが。改めて、中にいる人はあまりにも当たり前過ぎるから誰も言わないし、外にいる人はあまりにも反対のことが当たり前過ぎるからやっぱり誰も言わないから、あえてごくごく当たり前の言わずもがなのことを敢えて言っておくと、批評/評論は決して作品を貶める装置ではない。

安藤礼二さん課題

これについて僕は何を書けばよいだろう。
完全に作意を勘違いしてしまった。ここまで派手だったのは珍しいというか久しぶりというか…。そもそも、自分の読み取った作意(課題の意図)を、自分なりにそれなりに納得の行く難しい課題としての手応えを感じてしまったからこそ、誤った方向に突き進んでしまったのである。

課題文の、下記に引用した部分——

自らの「体験」(精神的なものから身体的なものまで、その質は問わない)をできるだけ分析的かつ創造的に言葉によって総合し、論考としてまとめること。

この部分の括弧付きの「体験」を、私は「理解」という言葉に身体性を込めたニュアンスであると曲解してしまった。その背景としては、批評に「体験」なんてあり得ないという思い込みがある。「自分の体験」を書いて、しかも「引用・参照をしてはならない」。それはただのエッセイだ。したがって、その解釈は誤っている。Q.E.D.——改めて振り返ると、素直なのかひねくれているのかよくわからない態度だが、少なくともそれまでの自分の批評体験の中ではこの「証明」はそれなりの正当性を得た。

改めて考えてみれば、課題に対して批評として応じなければならないルールなどどこにもない・・・? 極端な話、菊地さんがやってるように詩で答えてもいいのかもしれない。いずれにせよ、課題は課題として、それにそのまま応じればよい(※4)。

「転んでもタダでは起きない」というと美化しすぎ(美化?)だが、得られたものがなかったわけではない。つまり、言葉は全て既存の概念であるわけだから、オリジナル性については証明できない。例えば柄谷行人の概念をなんとか表現しようとするならば、彼の言葉やそこで新たに発明された概念=言葉を、自分なりの言葉に置き換えなければならない。引用したければ、引用した部分を全て自分の言葉に置き換えなければならない。まるで、五輪エンブレム問題のどこまでが盗作なのか?どこまでがデザイナーの仕事なのか?オリジナリティはどこにあるのか?という問題に対して、突然自分がその当事者になってその問題に回答しなければならないような、そんな苦戦を強いられることとなったのである。そして無駄に悪戦苦闘(まさに悪戦である)して空回りして、死んでいった。

そういう観点に、課題に込められた安藤さんの思いと照応する部分が全くなかったとは言えないかもしれないが、いずれにせよキャパオーバーだったことは確かだ。

 

※1 とにかくここ2週間程は忙しかった。9月10日に渡部直己回があり、9月12日に読書会、9月14日にRubyの試験(Silverだけど)、9月17日に課題の締め切り。シルバーウィークは9月20、21日には実家に帰り父親と囲碁を打った。9月22日は多少のんびりできたものの、23日は体調が微妙だったこともありほぼ一日ベッドの上、24日は通院して診察&検査で一日潰れる。からの安藤礼二回→飲み会に初参加。9月25日は久々の会社→通院。今日、明日は久々に自宅で一人の時間を持つことができる。
※2 ほら、例えば『超映○批評』とかね…。
※3 批評という対象だけに依るものではないのかもしれないし塾(安藤さん曰くの「徒弟制度」)という形態の新鮮さや、塾生達の個性やスキルにもまた自分のこれまで知らなかった豊穣な世界の一端に触れた実感はあった。
※4 ただ、一筋縄では行かない。課題の問いに単に応えることは、問いの縮小再生産になってしまうというのである。なんてことだ。つまり、批評は自分なりの問いを、個人的なパッションを問題意識として提示しなければならない。