「批評」という肩書を背負った文章を公開するということの意味

山崎健太さんの一連のツイートから引用。

「自分の文章に不正確な内容が含まれていること」をよしとしている

ことは、

読者に対する裏切りであり、さらに言えば演劇に対する裏切りだと思います。原典にあたらないだけでなく(当たり前の話ですが、期限までに原典にあたれないのならばその部分はカットすべき)、不正確さを指摘されたにもかかわらずそれに対する対応をしないのは、

そして対応をしないままに自分の文章をさらに喧伝するのは極めて不誠実な態度だと思います。

ミスは誰にでもあるけど、書き手の信頼性を担保するのはそれにいかに迅速に対処するかではないでしょうか。本当に悪いことをしたと思ったならば君がまずすべきだったのは俺に謝ることではなく、1.提出した文章を取り下げる

か、そこまでいかなくても、2.不正確な内容が含まれていることをなるべく早く告知し修正(の努力を)することだったのでは?

誠実さのない作り手/書き手はそのうち相手にされなくなるよ。

そうおっしゃっておりました。
居住まいを正される思いです。 

佐々木敦さんは非常に寛容に多様な価値観を受け容れて一定の評価をしてくださっているし、批評再生塾自体が基本的に可能性のある人を更に伸ばすという方向性であり、全員を伸ばすというのが目的ではなく批評再生を掲げているので、カルチャークラブや個人指導塾とは異なる(そういう意味では、常にトップ3を選抜する方がよいと自分的には思える)。だから、登壇レベルに達しない人の批評に関しては、当然ながらそんな細かい指摘はできるはずもないわけです。
ですから、こういうことをちゃんと指摘して叱責してくださることの価値というのは本当に大きいと思います(このツイートの背景は私は全然把握してないのですが)。
ウェブで公開する文章を書くということの意味、恐れ多くも「批評」という肩書を背負った文章を公開するということの意味を改めて反省する必要がある、そう思わされました。