第9回課題〜書きながら→書き終わっての反省。

書いてる間に感じたこと。

論説の流れを漠然とイメージできたとして、そこがスタート地点。
スタート地点にたどり着くまでが長いので、辿り着けただけでだいぶ気が楽になることは確かだが、それが罠である。スタート地点からゴールまでは言うまでもなく長いのである。資料集め、適切な配置、文章表現の調整、レトリックの選択、さらに論理を一貫させつつ大小の修正、時には論旨が曲がり多少の手戻りを余儀なくされることもある。

 

書き終わっての反省。

今回の課題は、題材選びに関しては(作戦が奏功して)はっきりと手応えを感じることができたのです。前回は様々な意味でお話にならないのでともかくとして、前々回に劣らず時間を費やし、作家の小説や映画化されたものを鑑賞し、ネット上のメディアも大いに活用し、お膳立てとしてはかなり好条件を揃えることができたと感じている。それだけに、自分の投稿作品の完成度の低さが悔しくてならない。

結局「書き方」を変えるしかない。つまりそれは課題への取り組み方だ。
時間をもう少し取らないとどうしようもない。
基本、方向性はそこまで極端に悪くはないと思っている。仮に悪かったとしても、ボトルネックはそこではないのだ。最終段階において、圧倒的に推敲不足であること。
前回の安藤礼二さんの講義を思い出す。

(書いていると)最初思ってたことと中身が違ってくる。直感的に(全体像の)把握はしているのだが、細部を詰めていくと違うものが出てくる。(最終的には、当初思っていた)全体像と似ていて、(より)豊かなものができる。

これは東浩紀さんが第二回目の講義でおっしゃったことでもある。東さんはよりラディカルに「論旨なんてどうでもいい」と喝破してしまったが。これは、批評に限らない。物を書く上での、ひいては創作全般に通じる法則なのだ(研究論文は多分違うが。学術論文は「創作」ではなくて「真理」だもんね?「書いている途中で細部を詰め始める」ということはしないんだよね)。

前提として「〈制作過程の創作物〉と〈制作者〉間のインタラクション」がある。
創作そのものが研究でもあるのだ。批評もまた、創作=物語的な要素を多分に備えている。学術論文は〈研究〉の結果の〈アウトプット〉であり、その2つは画然と区別されているが、創作や批評においては〈研究〉と〈アウトプット〉間を綺麗に切断することができない。そこに〈身体性〉が否応なく入り込んでしまう限り。

…自分の批評文が身体性を活かしたものかどうかはいささか怪しいところだが、
ともかく、書いている途中に当初想定していたことと趣旨が変わってしまうというのは確実にある。急に現実的な話になるが、大事なのは、趣旨が変わる、方向が変わった後でそれを作品に仕上げるための時間を取らなければならない。

また、もう一つ。
今回改めて感じた「詰め込み過ぎ」問題。
「4000字で何が書けるか」についてはもっと意識した方がよい。

締め切り前週の木、金は時間がとれない。木は塾で丸一日潰れるし、金は塾の振り返り。だからその次の土日に頑張ることが多いのだが、それで間に合わないのであれば締め切り前週の月、火、水に頑張るしかないのだ。

とりあえずそんなところ。

(追記)

忘れてた。語彙力、表現力の低さ。これが巨大な課題でした。
即効性の対処方法とか、これないよね…。教養だよね…。