第11回の反省

平倉さんの講評は自分(豆生田)の文章の説得力の欠如を痛烈に指摘していた。
ライフ・オブ・パイ』におけるリチャード・パーカーの立ち位置が《絶対他者》であったことは、論証するまでもなく自明だという思い込みが、この批評文の独善性に繋がってしまった。

「もうひとハッタリ」的な工夫はさて措いて、それ以前の文章としての洗練を指向する方がよいのではないか。このブログの記事についてもそうだが、全く批評らしからぬ幼稚な文章——語彙力の低さ、表現力の低さ、レトリックの弱さは、先に対処すべきだったのではないか。それに対する怠慢が文章の説得力を頭打ちにさせているのだ。第2回の講義で東さんが最初に語っていたことを、今更痛感している。

 

表現を変えることは、いわばリファクタだ。リファクタは機能は変えないが、メンテナンスにおいて雲泥の差をもたらす。批評においてはどういう効果を持つのか?

言いたいことは「書き上げたらリファクタしよう。」
そして「リファクタする時間を作り出すような書き方をしよう。」

リファクタする前に無理やり言葉をひねり出そうとすると、安藤礼二さん曰く「自家中毒」に陥る。実感としてその言葉を使えるようにならなければ。

 

必然性/アクチュアリティと倫理性(エチカリティ)。
必然性やアクチュアリティについてはこれまでもしばしば語られてきたことではあるし、受講生の一部はかなり問題意識を持って取り組んでいたものと思う。が、今回は特に全員の課題に対してコメントされたことでより強調された。
面白かったのは倫理性の方。言葉は暴力的な側面もあるわけだから、倫理性を意識する必要もある。こういう指摘は新鮮だった。

第11回課題進捗

課題発表時のブレスト(?):

とりあえず体の動きに関連しているものを適当に挙げてみただけ。

第10回課題終了後のひとりブレスト:

  • 音ゲー(=手先だけでなく体全体を使うものが多い)
    ・変遷
     ・「パラッパラッパー」(CSゲーム機のコントローラー使用)から「Dance Evolution」(Kinectを用いた体全体を用いた操作)まで
    ・楽器との違い
    ・「名譜面」の分析
  • 道具→ガラケースマホの進化
    ・新デバイスと身体性の絡み
  • 身体の動きによる表現:ダンス、能
  • 五郎丸選手のメンタルトレーニング(タイムリーなので)
  • プリキュアS☆S、満と薫の身体性
    ・インタラクションと人間性
  • ダンス
    ・振付師の表現
    ・配置、動きによる表現
  • 宇宙飛行士
  • 「身体をモチーフにした表現」でいいんじゃないか
    ・そう捉えればかなり範囲が広がる。文学、美術、映画…
     人の動きとか、動作とか。
     しかし、「身体を描いた絵画」は難しそう?(今考えると行けるかも)
    複数の図→その関係性
  • 都市、工業デザイン
    ・デザインの推移に隠されたもの=批評的視点
    ・テマティスム、上昇、下降…

そもそも「「身体の動き」について批評する」ということの意味が考えられていなかったので、ブレストしているうちに「あれ、批評って何だっけ・・・?」というところに何たび目か、立ち戻ることになるのであった。

なんらかの人間の意図が表現されたものでなければ批評する意味はないんじゃないかと思った。例えば「進化」について批評はできるだろうか?雪の結晶に対して批評はできるだろうか?造物主や物理法則を擬人化して、その作品とみなして批評できるのだろうか?

できるのかもしれないが、少なくともそういう「批評」はこれまで書いてないし、下手に取り組んでも批評とは異なる何か別のものになってしまう予感しかしない。

だから、「人間の意図が含まれた表現」に絞ることにした。
そういう意味では「ジャニーズのライブ」とか「ダンス」とか「映画」は、批評の対象としては悪くはないはずだ。

しかし、人間の意図が含まれていたとして、「その意図を読み解く」だけではただの事実の羅列になってしまう。

(今回は「身体の動き」がテーマということで、「社会」や「状況」の回よりもう少し前半の課題に近くて取り組みやすいんじゃないか…?と思っていたのだが、結局ここまで立ち戻って批評について改めて考えさせられることになった。ちょっと意外だったかもしれない。これが課題の作意だったのだろうか…?)

しかし作者の意図したもの、既に歴史上に明示的に記録されている事象を列挙していくだけでは批評ではなく、ただの歴史ライターになってしまう。
そこで、2回目の講義で東さんがおっしゃっていたこと——「批評とは歴史を変えることだ」という言葉——が思い出されるわけだ。そう、既存の歴史解釈を変えることが批評家には求められている。その視点からは、作者すら自覚していなかった新たな解釈が、この上ない説得力を持って語られるのである。めでたしめでたし。

そのように改めて考えてみると「テマティスム」も非常に自然な批評の方法論かなあと思えてくるわけだが・・・

というわけで、①人の意図が込められた作品であること ②意図の裏に隠された解釈を導き出すこと それを意識してテーマを決めようと思った。

さて、ここでもう一つ「図で批評する」という最大の条件について考えなおす必要がある。ここまで批評について再検討してきたが、ではその批評を「図で」行うとはどういうことか?

図によって隠された解釈を導く…。どうもピンと来ない。

ともかく、とりあえず「作品」としてもっとも手軽にアクセスできる「映画」を適当に観てみることにした(今回は課題提示から締め切りまでが3週間空きなので、多少の余裕があった)。

 

そこで『ライフ・オブ・パイ』『セッション』『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の3作品をレンタルして観てみた。必ずしも課題のテーマにしようと思ってみたわけでもなく、手がかりが得られればいいなと思って娯楽半分で観たものだ。テーマになりそうな「身体の動き」としては、原題がWhiplash(=「鞭打ち」)であり、ジャズ・ドラムという体全体を使った楽器が主役に据えられているので、『セッション』がとても書きやすいように思えたのだが、いかんせんこの作品の魅力を全開まで描かなければならないというところではたと足が止まってしまった。正直、自分はこの映画で誰にも感情移入できなかったし、フレッチャー教授は最後の最後で自分の中ではただの嘘つきで性悪のファックな人間という解釈になってしまったので、これをがんばって視聴して、面白い観点を探すという行為ははっきり言って苦痛にしか思えず、憂鬱だった。

いっそ『マッドマックス』での豪快無比で吹っ切れてるアクションについて図でどうこうしようかとも思ったが、ふと『ライフ・オブ・パイ』でボートと筏の関係について思いついてこれが書きやすそうだと思った。この映画自体なかなか面白かったし映像と音楽がキレイだったし。主演のインド人の叫び方が単調だなあというきらいはあったけれども。もちろん、その時には「ボートと筏の関係で何か一つ書けそうだ」という直観に過ぎず、実際に後に提出した作品の結論(?)には全く至っていなかった。これが「身体の動き」についての批評、という課題に対して答えになりうるのかはわからないし、そろそろ時間がなくなっていた。『セッション』への多少の未練はなかったかというと嘘になる*1が、やむを得ない。

上記ツイートは完全に率直な実感で、締め切りが明確に決まっている作品は往々にしてこういう事態に遭遇する。その時に提出を潔く諦める人もいるのだろう。

 

*1:ちなみにセッションなら何を書いたか、というのは自分にも全くわからないし、特に何が思いついたわけでもない。

第10回課題を書き終えての反省

普通にダメなこと

とにかく粗い!!!!いろいろ粗っぽ過ぎて嫌になる…。
流れ的にはそこまで酷くもないんじゃないかと思うが、なんというか端々の全く重要じゃない表現が無駄にひっかかって減点食らう感じ。小骨が異常に多い魚食ってるみたい(って我ながら凄い比喩だな…)。

まあ、その比喩で言うなら、最初の方に出した「批評」に比べたらまだ「魚」っぽい感じはあるんじゃないだろうか。当時は魚の原型もなく肉も半分腐ってる感じだったから、読んだら「え・・・何これ・・・」的な感じあった。それと比べると「魚」っぽい気はしなくもない(自己評価高すぎ?)。

例えばここ

それでも、日本は恐らく「映画」ではなく「ゲーム」を表現の場として選び続けるしかない。

これだけ見ると何のことやらさっぱりわからない。日本は「映画」を作ってるじゃないか。最近だと例えば「進撃の巨人」はどうなのか?ってことにもなるだろう。

そう考えてみると、この一文の主張がどれだけ有効性を備えていたか・・・わからなくなってくる。というか必要なのか?w「呪いが解かれる場所」というならもっとそっち側で主張したかったんじゃないか?

また、

バイオハザード』(1996、カプコン)はそのまま舞台がアメリカであり、アメリカのB級映画的なゾンビ物であり、

と言っているのに、

バイオハザード』は後にアメリカで映画化し、映画でもシリーズ化する人気を誇っている。ポテンシャルとしてのストーリーやサバイバルホラーとしてのクオリティは、わざわざハリウッド映画を模したゲームではなく、映画としても決して遜色がないことは既に証明されている。

と後に言っており、あれ?って思うw

次やること

実は次回課題提出までは3週間空くので、少しだけ余裕ができる。
やはり2週間ごとに立て続けで課題が来るのは本当に辛い。それだけに一週間空くだけでも気持ち的にだいぶ楽だ。

というわけで、少しプラスアルファをやっておきたい。

1. 他の人の過去の提出論文をしっかり読むこと。特に登壇経験者の論文。

これが実は今まであまりできていない。一方で、登壇者たちはみな他の人の論文を読んでいる。批評家の文章を読むのが勉強にならないわけはないが、より近い目線で書かれた文章の方が、示唆されるところは大きいかもしれない。

2. 平倉さんの本を読む。実は結構、講師の本をスルーしていたりする人である。ダメ過ぎる気はする。

orz...レベル低…。

3. 自分の書いた文をしっかり反省して、夢中で書いている時には反省しきれない部分を見出して、それを次回に活かしたい。

これまではそもそもアウトプットを反省するというよりも、アウトプットに至るまでの過程が既にgdgdなのでそこだけの反省で手一杯だったというのもある。

別にいまそれ(アウトプットに至る過程)が改善されているわけではないのだが、自分の書いたものと真っ向から向き合って、内容を反省することは絶対に必要だ。

4. 語彙力、表現力に欠けるので、他の批評文で見つけた使えそうな表現や言葉をリスト化しておく。こんな馬鹿みたいなこと、正気か!?って感じだけど、面白そうなのでやってみたい。言葉ってテクストを作るけど同時にコンテクストを背負うので、言葉は即ち力になるのだ。

5. 課題とは別にオリジナルのテーマで批評を一本書いてみる。字数は特に制約なしで。菊地さんが、「10,000字書いてみること」ということを言っていて、それアリかも、ってちょっと思った。

 

息切れ

ちょっと最近辛い。

 

本業が微妙な感じなのがダイレクトに生活と精神に強い影響を及ぼしている。そのせいで、これまでギリでやってきた再生塾が非常に辛くなっている。
再生塾自体、自分の筆力の脆弱性と進歩の無さ、地頭の悪さが回を経るごとにわからされて、それが辛いという意味もある。かなりのエネルギーを投入して取り組んでいるはずなのだが、どうも根本的にやり方が間違っている可能性も高い。やり方を変えていかなければ空回りになる。しかしその元気が不足している。

 

「目」が最近調子が良くない。明らかに視力が落ちている。自分はホントに目が弱いんだなと思わされる。これは遺伝的なものだ。父も姉も視力は酷く悪い。それが少なからず不安に繋がっている。

 

誰しも万全な状態で再生塾に臨めているはずもないということは、提出率の低さを見るまでもなく当然なのだが、これからはこれまで以上に工夫を強いられることになるだろう。

 

さやわかさんの講義を受けて

再生塾の前半は「文化」個々のジャンル、後半はもっと広い形で「政治」とか「社会」とか「状況」というテーマとなっている
さやわかさんはちょうど折り返し地点で、「前半の「文化」について書きながら、後半扱うべき「社会」について書けるのか」というのが一つの裏?テーマとなっていた、とのこと。うーん、その辺あまり意識できてなかったな?

 

一人ひとりに講評をつけてくださった(本当に感謝…)のだが、全体に「今日的な状況についてナメている」ところがあると。「今はこうだ」と一言で済ませてしまっていて、しかも典型的な二項対立の図式に落とし込んでいたり、凡庸な解釈になってしまっているとのこと。

また、課題の意図が無視されていることについて度々指摘していることに気づく(おそらくこれまでの講師に言われてきたこととの齟齬もあるんだろうな、とは思う)。

 

確かに、少なくとも自分の意識だけを見ても、これまでは対象の作品に焦点を当てて、それを多面的に解釈するというやり方で来ていた。そしてそのやり方においては、社会的な背景とか状況は背景でしかなかった。必然的に、社会自体を対象として論じるということはできなかった。今後はそれをやっていかなければならない。次回の「アメリカの影」についてもまさにそれをしなければならない。参ったorz 

 

それにしても、菊地さんや升本さんの作品に対して真っ向から指摘をしながらも、他の塾生も言っていたが「紳士的」な態度に、(ああ、こういう接し方があるんだ)となんというか目から鱗というか…。基本的に受講生の方々もそうだけど、凄く異なる価値観に対して包容力があって、どのような価値観をも受け容れられる、キャパシティが大きいという印象。佐々木さんの菊地さんに対するコメントに至っては、無関係な僕の方が涙が出そうな(何でだよ、というツッコミは甘受いたします)くらいの愛情に溢れていたりしたわけで…。

 

自分がこれまで属してきた理系の研究室とエンジニアという業界で、「ダメなものはダメ」と全否定して憚らない方々に接してきたと思う(もちろん、それが人格否定やらその他のところまで波及したりはせず、対象が異なれば切り分けて態度を変えられるところはさすがに知的なところだと思うのだけど)自然と自分もそういう姿勢になってきていたと思う。だから、ことあるごとに批評再生塾の講師/受講生の方々のキャパの大きさと、アプローチの方法という面で学ばされることがあり、その辺は現在の仕事の仕方にもダイレクトに活きてきそうな気がします。

 

執筆環境

エディタ、アプリ

 エディタはGoogleドキュメントを使っている。通常の業務ではテキストエディタemacs)を使っているのだが、何かを作る時にはリッチエディタの方が何かと便利。色やコメント、リンクの埋め込み、ページ内リンク(目次を活用)が使えるのは非常によい。例えば、書いた文について、色で採用不採用を区別しているのだがこれが非常に便利。一旦削除してもまた復活させたりすることも可能だ。一度ボツになった文を復活させることは少ないが…。「提案」機能も推敲時に非常に便利。また、変更履歴もしっかり残っている。
 それにしてもPCが無い時代に文章を書くのは本当に大変だったのではないかなと…。自分も小中〜高校生頃にはPCには全く触っていなかったが、当時書いてた文章なんてたかが知れているので特に不便を感じたわけでもない。プロとして書く時にはそれなりの工夫があったのだろうと想像する。今でも紙とペンで書く作業形態を守っている文筆家はいるのかもしれないが。
 直接、図を描く機能は備えていない(図を埋め込む機能やGoogle図形描画で図を作成する機能は付いている)のは残念だが、自分の知る限り図を含めて使えるエディタは存在していないのでこれについては諦めている。図を描きながら考えたいとき、例えばブレストの段階とかには、PCから離れて紙とペンを使っている。
 あとKindleは不可欠。Kindleは全然使いこなせてはいない気がするが、ハイライトと検索があるだけでも抜群。

ワークスペース

自宅のディスプレイと繋げてデュアルにしている。MacOSなのでワークスペースがデフォルトで使えるのは便利。基本PC側で執筆して、ディスプレイ側にはKindleGoogleドキュメントで開いている執筆中のファイルをもう一つ開いたウインドウ、またウェブ上の資料を異なるワークスペースに配置して作成している。

書き方

 他の方々がどういう風に使っているのか教えてもらいたいが、自分の場合は浮かんだアイデアを繋げていって最終的にまとめる形で書いている(注意:「最終的に」というのは、時間的に)。下書きの原稿は同時にアイデアを貯めこんでいくメモでもある。メモと下書きが未分化な渾然一体となっているカオスが私の原稿だ。そういう作成環境がアウトプットの質の低さに繋がっている可能性は大いにある。

「批評」という肩書を背負った文章を公開するということの意味

山崎健太さんの一連のツイートから引用。

「自分の文章に不正確な内容が含まれていること」をよしとしている

ことは、

読者に対する裏切りであり、さらに言えば演劇に対する裏切りだと思います。原典にあたらないだけでなく(当たり前の話ですが、期限までに原典にあたれないのならばその部分はカットすべき)、不正確さを指摘されたにもかかわらずそれに対する対応をしないのは、

そして対応をしないままに自分の文章をさらに喧伝するのは極めて不誠実な態度だと思います。

ミスは誰にでもあるけど、書き手の信頼性を担保するのはそれにいかに迅速に対処するかではないでしょうか。本当に悪いことをしたと思ったならば君がまずすべきだったのは俺に謝ることではなく、1.提出した文章を取り下げる

か、そこまでいかなくても、2.不正確な内容が含まれていることをなるべく早く告知し修正(の努力を)することだったのでは?

誠実さのない作り手/書き手はそのうち相手にされなくなるよ。

そうおっしゃっておりました。
居住まいを正される思いです。 

佐々木敦さんは非常に寛容に多様な価値観を受け容れて一定の評価をしてくださっているし、批評再生塾自体が基本的に可能性のある人を更に伸ばすという方向性であり、全員を伸ばすというのが目的ではなく批評再生を掲げているので、カルチャークラブや個人指導塾とは異なる(そういう意味では、常にトップ3を選抜する方がよいと自分的には思える)。だから、登壇レベルに達しない人の批評に関しては、当然ながらそんな細かい指摘はできるはずもないわけです。
ですから、こういうことをちゃんと指摘して叱責してくださることの価値というのは本当に大きいと思います(このツイートの背景は私は全然把握してないのですが)。
ウェブで公開する文章を書くということの意味、恐れ多くも「批評」という肩書を背負った文章を公開するということの意味を改めて反省する必要がある、そう思わされました。