第9回課題〜書きながら→書き終わっての反省。

書いてる間に感じたこと。

論説の流れを漠然とイメージできたとして、そこがスタート地点。
スタート地点にたどり着くまでが長いので、辿り着けただけでだいぶ気が楽になることは確かだが、それが罠である。スタート地点からゴールまでは言うまでもなく長いのである。資料集め、適切な配置、文章表現の調整、レトリックの選択、さらに論理を一貫させつつ大小の修正、時には論旨が曲がり多少の手戻りを余儀なくされることもある。

 

書き終わっての反省。

今回の課題は、題材選びに関しては(作戦が奏功して)はっきりと手応えを感じることができたのです。前回は様々な意味でお話にならないのでともかくとして、前々回に劣らず時間を費やし、作家の小説や映画化されたものを鑑賞し、ネット上のメディアも大いに活用し、お膳立てとしてはかなり好条件を揃えることができたと感じている。それだけに、自分の投稿作品の完成度の低さが悔しくてならない。

結局「書き方」を変えるしかない。つまりそれは課題への取り組み方だ。
時間をもう少し取らないとどうしようもない。
基本、方向性はそこまで極端に悪くはないと思っている。仮に悪かったとしても、ボトルネックはそこではないのだ。最終段階において、圧倒的に推敲不足であること。
前回の安藤礼二さんの講義を思い出す。

(書いていると)最初思ってたことと中身が違ってくる。直感的に(全体像の)把握はしているのだが、細部を詰めていくと違うものが出てくる。(最終的には、当初思っていた)全体像と似ていて、(より)豊かなものができる。

これは東浩紀さんが第二回目の講義でおっしゃったことでもある。東さんはよりラディカルに「論旨なんてどうでもいい」と喝破してしまったが。これは、批評に限らない。物を書く上での、ひいては創作全般に通じる法則なのだ(研究論文は多分違うが。学術論文は「創作」ではなくて「真理」だもんね?「書いている途中で細部を詰め始める」ということはしないんだよね)。

前提として「〈制作過程の創作物〉と〈制作者〉間のインタラクション」がある。
創作そのものが研究でもあるのだ。批評もまた、創作=物語的な要素を多分に備えている。学術論文は〈研究〉の結果の〈アウトプット〉であり、その2つは画然と区別されているが、創作や批評においては〈研究〉と〈アウトプット〉間を綺麗に切断することができない。そこに〈身体性〉が否応なく入り込んでしまう限り。

…自分の批評文が身体性を活かしたものかどうかはいささか怪しいところだが、
ともかく、書いている途中に当初想定していたことと趣旨が変わってしまうというのは確実にある。急に現実的な話になるが、大事なのは、趣旨が変わる、方向が変わった後でそれを作品に仕上げるための時間を取らなければならない。

また、もう一つ。
今回改めて感じた「詰め込み過ぎ」問題。
「4000字で何が書けるか」についてはもっと意識した方がよい。

締め切り前週の木、金は時間がとれない。木は塾で丸一日潰れるし、金は塾の振り返り。だからその次の土日に頑張ることが多いのだが、それで間に合わないのであれば締め切り前週の月、火、水に頑張るしかないのだ。

とりあえずそんなところ。

(追記)

忘れてた。語彙力、表現力の低さ。これが巨大な課題でした。
即効性の対処方法とか、これないよね…。教養だよね…。

安藤礼二さん回

久方ぶりの充実感であった。
これまでの講義のまとめ的な意義すら感じられた。
東さん的要素、三浦さん的要素、渡部さん的要素、まとめた上で批評を書く上で重要な新規要素について教えていただいた感がある。
東さんは「ただ茫漠と書いているのは絶対ダメ」と言われたが、安藤さんには「「書く」ことです。(批評を)書きたかったら(批評文を)書くしかない」と言われた。この差異は我々の成長であったと信じたい。

講義中の言葉

  • 「言葉」で「言葉」を批評→自家中毒。「言葉を読んで言葉を書く」だけでは新しいものは生まれてこない。そういう切実な思いがあった
  • 「共感」「感動」それがないと読み進められない。そしてそれらは「記憶」に結びついていなければならない。
  • 「身体性」初めての領域(音楽とか、スポーツとか)を言葉で表現する。当たり前じゃない方向から物事を見れる。オリジナリティは言葉にならなかったものを言葉にして、言葉の領域を広げるということ。
  • 「研究」と「批評」の違い:「研究」はがっちり調べる。「言語化」する。「批評」は、がっちり調べただけでは批評にならない。批評は「身体性」が無きゃダメ。
  • 批評における「プロ」と「アマチュア」:プロは領域を自明視してしまう。(引用、参照を禁じたのは、そのような自明視を避けるため)→批評にプロはない。アマチュアリズムがないといいものは書けない。
  • 自分でどう差異化するか、が重要。既存の問題系を受け入れた時点で答えが出ちゃう。問題を立てる方が重要。
  • 提出作品に全体に足りていないのは「具体性」。例えば祖父について書いた方(綾門さん)、「感情」をもっと具体的に書いてほしい。具体性にもう少し深みがあるとよい。この訓練はして損はない。
  • 批評は単なる知識の披露ではない。答えはないから問題を立てつつ造形していくしかない。それは物語、あるいは作品。「かけがえのない記憶」をどう外側に開いていくか。
  • 論じる対象のディスクリプションをしなければならない。細部に思わぬ発見がある。「測量」大事。まだ、みなさんの作品は「印象」を書いている。「測量」していけば、いいものが書けてくるはず。
  • 本当に自分自身が発見したものでなければならない。好きなモノ(文学作品にこだわる必要はなく、山登りでもスポーツでもよい)を選ぶ方が悔いが残らない。愛の問題。自分なりの愛の言葉を作り上げなければ、振り向いてくれない。
  • 難しいのは例えば「決闘」、「戦い」、「苦痛」いろんな力が作用していて、これが出来るだけでも凄い領域にいける
  • 文章だけ読んでもわからない(実際に体験、記憶する必要性)。最初は文章だけで書けるが、やはり直接行ったり、動かさないと見えてこない
  • 折口をやっているのは、「今、自分が立ってる場所を知る」ため。自分自身の納得を求めて書き続けている。現在を語るためには過去からもう一度現在を照らしださないといけない(歴史的な遺産に触れて「経験」する→歴史を「体験」する)。
  • 「プロの文芸批評家」は文学を批評しないといけない。しかし、これでは先細りになる。文学の作者は実践しているのに批評家はそれに寄り添うだけでは迷惑。離れた地点から照らし出す必要がある。そういう距離感、視点、絶対に必要。
  • オーダーが来ると回路付けされてしまう。そうなると、思い切ったものが書けない。
  • 面白い小説には、思ってもいなかった未知なるものがある。批評にもそういうものがある。「発見」がなければならない。突如何かを思いついたときに、恐れないでやっちゃってほしい。できるだけ派手に失敗した方がいい。
  • やっぱり量書いていかないとダメ。凄い作家は凄い多作。強烈な作家は、作品ばかり作ってる。プロダクティブ。失敗を恐れずに作っては捨てていく。乱暴さは結構必要。変にまとまるより(そんなまとまった文章なんて世の中にいくらでもある!)できるだけ派手な失敗をした方がいい。
  • そこに自分の身体がある、そういう本を書いてほしい。

やさしさに包まれたなら』ではないが、全ての発言がメッセージ、みたいな。
批評というものは何もかも自明視できない、プロがいないプロ足り得ない。そして体ごとぶつかって表現していく。・・・

批評観はもう二回りくらい変わり続けてきた気がするけれども、ある意味絶望的な認識というか…。ちょっと私にとっては高度過ぎるかな…。と思わなくもない。

強引にまとめる(超訳気味)と、

批評においては、アマチュアリズムを持ち、領域を自明視せずに、既存の問題系に乗る/回路付けされることなく、自分自身で問題を立てていかなければならない。対象/感情を言葉で捉えるだけではなく、身体性を活かして具体的にディスクリプションするべき。その過程で、当初は思ってもみなかった「発見」がある。その際に、恐れずにやってしまうことが大事。その結果、出来上がった作品/論文には「自分自身がいる」ようなものになる。書きたければ、どんどん書いていくしかない。

といった感じか。素晴らしかった(ため息)

そういえば、

ツイッターで呟いたら綾門さんが寺山修司、野村さんが内田樹を勧めてくれた(ありがとうございました!)。身体性が重要、といっても具体的にどういうものか、ちょっと見本を見たいという弱々しげな動機なので恥ずかしい話だが・・・。

ここ2回の講義と課題について

渡部直己さんの講義と、安藤礼二さんの課題、講義があったが、それについて全く言及できないままだった(※1)。

渡部直己さん講義

渡部回はテマティスム(といっていいと思う)の講義。
しかし、細部に宿る神を探せ、と言われた時に、テマティスムという言葉は実は全く頭に浮かんでいなかったという…。自分は西加奈子の作品をテーマに書いてみたが、当然ながらテマティスムとは全く関係も何もない。

印象に残ったのは以下の言葉。

渡部「批評とは再生すること。対象を良い方向に再生させる。くだらない対象が再生されても意味ない。対象の力を引き出す産婆術みたいなもの。」

渡部「作品の一番魅力的なところをかっぱらってきてほしい」

というもの。第4回の講義の三浦哲哉さんもやはり誰かの講評の際に同じようなことを言われ、それもまた強く印象に残っていたし、自分の心に特に響いた。

批評家や評論家が疎んじられるとしたら、批評/評論と題してまるで対象の揚げ足をとってその隠れていた欠点を曝け出すレビュー(※2)の生産装置に思われがちである、あるいは、レビューはするのに自身は作品を生み出さずに評論家という立場でケチをつけるだけで飯を食っている、というイメージが少なからずあるのではないか。

しかし、実際に批評再生塾に入って、批評の世界の内側を恐る恐る覗きこむ形になると、自分がこれまで思っていた評論とか批評とは全く異なる世界が広がっていた。ただ、思い返してみれば既存の自分が抱いていた批評に対するイメージ自体も実のところ茫漠としていた(なんでお前申し込んだんだよという話になってしまうが)ので、"世界観が覆される衝撃"とは違ったが、自分の知らない、凄く魅力的なものが詰まった世界を目の当たりにした感じはあった(※3)。

その上で、改めておもいっきりナイーブな視点で「評論」という言葉を見返すと、あるいは知らない振りして世間におけるそのイメージをなぞってみようとすると、世間的にはそういう、"頼んでもないのにわざわざ難しげに嫌なことをいう、気持ち悪いインテリ"辺りは一つの居た堪れない落とし所にもなり得るとは思う。

しかし少し中身を見聞するだけでも、そういうナイーブなイメージは雲散霧消する。あるいはそうまでは言わずとも、相対的な位置づけは位置づけは果てしなく低下する。

その理由の一つが、上記の「作品の一番魅力的なところを」という発言に端的に現れている。一度このブログでも言及したかもしれないが、三浦哲哉さんはこういった。

批評はとりあえず全開まで、魅力を読み取って解釈してほしい

渡部直己さんは文学、三浦哲哉さんは映画。お二方とも、その対象を愛しているのだ。そして、その表現として批評という手段を用いている。私はこれらの発言に、ビシビシそれを感じたのだ。私がこう「愛」なんていう手垢のついた言葉を迂闊にも(全く迂闊にも)使って表してしまうと、文字通りキモチワルイ響きを備えてしまうのが辛いところだが。改めて、中にいる人はあまりにも当たり前過ぎるから誰も言わないし、外にいる人はあまりにも反対のことが当たり前過ぎるからやっぱり誰も言わないから、あえてごくごく当たり前の言わずもがなのことを敢えて言っておくと、批評/評論は決して作品を貶める装置ではない。

安藤礼二さん課題

これについて僕は何を書けばよいだろう。
完全に作意を勘違いしてしまった。ここまで派手だったのは珍しいというか久しぶりというか…。そもそも、自分の読み取った作意(課題の意図)を、自分なりにそれなりに納得の行く難しい課題としての手応えを感じてしまったからこそ、誤った方向に突き進んでしまったのである。

課題文の、下記に引用した部分——

自らの「体験」(精神的なものから身体的なものまで、その質は問わない)をできるだけ分析的かつ創造的に言葉によって総合し、論考としてまとめること。

この部分の括弧付きの「体験」を、私は「理解」という言葉に身体性を込めたニュアンスであると曲解してしまった。その背景としては、批評に「体験」なんてあり得ないという思い込みがある。「自分の体験」を書いて、しかも「引用・参照をしてはならない」。それはただのエッセイだ。したがって、その解釈は誤っている。Q.E.D.——改めて振り返ると、素直なのかひねくれているのかよくわからない態度だが、少なくともそれまでの自分の批評体験の中ではこの「証明」はそれなりの正当性を得た。

改めて考えてみれば、課題に対して批評として応じなければならないルールなどどこにもない・・・? 極端な話、菊地さんがやってるように詩で答えてもいいのかもしれない。いずれにせよ、課題は課題として、それにそのまま応じればよい(※4)。

「転んでもタダでは起きない」というと美化しすぎ(美化?)だが、得られたものがなかったわけではない。つまり、言葉は全て既存の概念であるわけだから、オリジナル性については証明できない。例えば柄谷行人の概念をなんとか表現しようとするならば、彼の言葉やそこで新たに発明された概念=言葉を、自分なりの言葉に置き換えなければならない。引用したければ、引用した部分を全て自分の言葉に置き換えなければならない。まるで、五輪エンブレム問題のどこまでが盗作なのか?どこまでがデザイナーの仕事なのか?オリジナリティはどこにあるのか?という問題に対して、突然自分がその当事者になってその問題に回答しなければならないような、そんな苦戦を強いられることとなったのである。そして無駄に悪戦苦闘(まさに悪戦である)して空回りして、死んでいった。

そういう観点に、課題に込められた安藤さんの思いと照応する部分が全くなかったとは言えないかもしれないが、いずれにせよキャパオーバーだったことは確かだ。

 

※1 とにかくここ2週間程は忙しかった。9月10日に渡部直己回があり、9月12日に読書会、9月14日にRubyの試験(Silverだけど)、9月17日に課題の締め切り。シルバーウィークは9月20、21日には実家に帰り父親と囲碁を打った。9月22日は多少のんびりできたものの、23日は体調が微妙だったこともありほぼ一日ベッドの上、24日は通院して診察&検査で一日潰れる。からの安藤礼二回→飲み会に初参加。9月25日は久々の会社→通院。今日、明日は久々に自宅で一人の時間を持つことができる。
※2 ほら、例えば『超映○批評』とかね…。
※3 批評という対象だけに依るものではないのかもしれないし塾(安藤さん曰くの「徒弟制度」)という形態の新鮮さや、塾生達の個性やスキルにもまた自分のこれまで知らなかった豊穣な世界の一端に触れた実感はあった。
※4 ただ、一筋縄では行かない。課題の問いに単に応えることは、問いの縮小再生産になってしまうというのである。なんてことだ。つまり、批評は自分なりの問いを、個人的なパッションを問題意識として提示しなければならない。

 

締め切りに追われて何が嬉しいか

本を読むのが速くなる

時間がないことに気づく=自分なりのかかる時間がなんとなくわかってくる

集中の大事さに気づく。

集中といっても集中力という計測できない対象ではなく、純粋にエディタを開いて作業している時間ということ。TwitterとかFBとか見始めたらそれは集中が切れたということ。

Twitterはちょっと見るくらいいいじゃん、って思っていたが、塵も積もれば山となる。という諺は真理であり、ちょこちょこ観てると多分仕事効率は2/3くらいには平気でなる。それってホント勿体無いよね。それを身をもって知ることができる、というのは重要。これまではまだ若かった。時間があった。だからそれに気づけなかった。愚かだった。)

 

第7回課題に取り組みつつ考えていたことなど

今回とりかかりが遅れたのは、間違いなくただの「怠慢」によるもの。意識が下がってる感はある 直前になってバタバタというのはやめよう、本当に。

自分の課題がそもそも、

まずはそのベースとなる文章力/構成能力を磨こう。人が読みたいと思う、読ませる文章を書けることを目指そう。それがこれから当面の自分の課題だ。

 なので、書評としての批評を目指すのはやめておく。

「読ませる文章」というのはどういうことなのかについて反芻する程の余裕はなかった(次回への課題だ)。しかし「リーダブルであること」というのが、2chとか今回の升本さんの論文について、あるいは富久田論文に関して結構言及されていたように思えるし、前回講義の最後に佐々木敦さんが言っていた下記の発言は、

目指すべきことというのは、なんかの「○○特集」あった時に、「この人に書かせてみよう」「この人、○○が好きかどうかわかんないけど、彼に書かせたら何か面白いこと出てくるんじゃないか」と思わせる存在にどうなるか

要は

ということなのかな、と自分なりに解釈している。

今回の課題の批評のカテゴリーは文芸批評であり、到底ガチ勢に小手先の技で太刀打ちできるはずもないので、自分的には自分の目標——読ませる文章、リーダブルな文章を目指して臨む機会とみなそう、と弱々しいことを考えていた。

書いている途中に考えたこと。

案外、いろいろ思いつく。こじつけという程でもない、良さそうなネタはぱっぱっと浮かんでくる。批評の対象がガチの文章という、実はこれまでに一度もなかった(!)事態なので、これまでとはだいぶ手応えが異なる感じがある。「そのまま引用できる」というのは大きい。四千字くらいであれば、結構あっさり書けるんじゃないかと思わせてくれる。これまでも文献を参照することはもちろん何度もあったが、それはあくまでも参照に過ぎなかった。

そして、定量的な分析もしやすい。相手はガチの文章なのだ。文章ということは、言葉や言い回しなどが例えば何度出現するとか、どういう単語を作者が使っているのかという傾向も数値として立ち現れてくる。

また、小説自体これまであまり読んでこなかったが力のある書き手の小説はかなり面白いことがわかった。これは何を書くかはあまり関係がないような気がする。

しかし現実は理想に程遠い。なんだかんだ考えつつも、後は時間に間に合わせるために結局今回もただ文字数を埋めるだけの機械になってしまった。

また、「読ませる文章」を目指した今回としてはもう諦めるつもりではいたのだが、やはりただの読書感想文になってしまう

批評:既存の思想や枠組を踏まえつつ、新しい観点を発明すること。
読書感想文:既存の思想を踏まえずに、主観的な意見を書き連ねること。

さらに、「読ませる文章」についても何ら考えることもできず、工夫を凝らす努力さえ放棄して、何一つ前進がなかった。何かとりあえず本でも読もうか…。

書いた後に思ったこと

自分の反省としては、やはり急ごしらえというか、考察が浅い感じは凄くあるし、前提として読み解いた上での批評、であるべきなのに、その読み解き段階で終わってしまっている感。「美味さ」と「甘さ」の違いなんて最初に注目すべきところではないし、付け足しみたいに「あ、ここも違うよねw」程度のノリで触れる程度だろう。もちろんそれは読解の結果ではあるにしても、それは読書感想文の域を決して出るものではない。

改めて感じたことは、批評というのは確かに最初の論旨に対して、「一旦書き上げた」時の論旨が微妙にもしくは大きくズレてしまっている、ということ。
つまり書いているうちに設計図が変わってくるのである(そしてそれは、決して否定されるべき点ではない。批評を書くというのはおそらくそういうことなのだ)。言い換えれば、論旨というのは書きだす前に一度生み出されているべきだが、書き上げた時点で再度生み出される

とすると、最初に書き上げた結果というのは、書き上げる過程で散々試行錯誤や推敲を繰り返して生み出されたものかもしれないし、一見完成作品に見えるかもしれないが、それは決して完成品ではなく中間生成物に過ぎない。それは最後の重要なプロセスを欠いている。つまり、検証プロセスを経ていない。一度書き上げた後に再度全体として推敲をしなければならない。そうしなければ完成しないのだ。その作業は、単に「念のために見直す」という意味ではなく、一つの不可欠なプロセスである。いわば、アプリが動作する状態になったが動作検証は行っていない(未検証)という段階である。この時点でリリースする人はいないように、一度書き上げた時点で即投稿するというのはプロセスを欠いた不良品を投稿しているのと同じだ。

少なくとも1日分、推敲プロセスに費やす。これで見違える程に完成度が上がるのではないかと思う。一度やってみよう。

 

しかし、未だに「『批評』とは」ということが大分なおざりにされているんじゃないか、まずは「読ませて面白い文章なら何でもいいよ」という空気に塾生の間ではなっているんじゃないかという危機感はある。「批評とは」という問いかけについても、最初の頃の回(東浩紀さん、渡邉大輔さん、三浦哲也さん辺りまで)以降は踏み込んでいないのではないか…。

また、読ませる文章というレトリック以前に、内容を面白くするためにはどうすればいいのか、と考えてみたい。それは、結局面白い論文をガンガン読んで、そのエッセンスを取り入れるということが不可欠になるだろう。

市原ぞうの国(CW: Sayuri World)

今回は批評を離れて軽い話題。

週末が父の誕生日だったので、実家に帰ってお祝いついでに「市原ぞうの国」に行ってきた。ここは市内の森の中にある小さな動物園なのだが、飼育しているぞうの頭数は日本一(カピバラもそうだったかもしれない)という、ぞうに特化した動物園である。むろん、ぞう以外の動物もいるのだが。

夏休みも終わりに近づいた小雨の日曜日、賑わいとは程遠い園内を一望する限りの第一印象としてはただの「田舎の動物園」に過ぎない。まずは内装が野暮ったい。動物の檻も、鉄の柵の中に囲まれたコンクリの床の上に申し訳程度に置かれた動物用の遊具(寝具?)だけであり、糞尿は床の上にバラ撒かれたままだ。そんな檻の中で、何の楽しみもないかのようにのそのそと動き回る動物の姿は、人類の動物に対する偽りのない権力関係を見せつけられるかのようである。子供向けのファンシーな動物のイラストとの対照のグロテスクなギャップは昔の動物園さながらに丁寧に再現されていた。

しかし、ここはさすがにただの動物園ではなかった。(続く)

批評の面白さとは

自分はこれまで批評をまともに読んだことがなかった。だから、批評再生塾に入ってから全く新しい世界に触れた、といって決して過言ではない。
こんな面白い文章のジャンルがあったのか。素直にそう思ったのだ。まさに自分が求めていたタイプの文章がそれだった。ちょうど、自分が大好きなアニメが正当に評価されていない時に自分がなんとか表現したかった時に、僕が多分書きたかったのはこういう文章だった。

なんでそれは面白いのか?
それは思いの外、わかりやすかったからだ、というと語弊があるだろうか。個性のある、血の通った、読ませる文章。卓越した読解力で、一見何でもない作品の裏を抉り出す鋭さ、巧みさ。決して言葉遊びでもジャーゴンに塗れた世界でもなく、また数字やデータを使うでもなく、文章一本で全てを表現するその潔さ。

例えば東浩紀の『セカイからもっと近くに』。SF、ミステリ、アニメという全く異なる分野、一見関連がない作品群から、その裏に隠された統一した深層が見事に摘出されて提示された衝撃は忘れがたいものがある。まるでそれ自身がミステリー小説であるかのような批評。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』は自分の価値観を叩き潰すようなパッションと勢いと鋭さと強さ。それは何よりも、彼の卓抜した洞察力に支えられている。蓮實重彦の『フーコードゥルーズデリダ』。全く具体的な言葉を使わず、抽象的な言葉しか使っていないのに、しっかり地に足が着いているという恐るべき表現力。文章自体の絢爛豪華さ。時代が違うというのもあるが、これ程までに「批評」は輝いていた。浅田彰の『構造と力』。構造主義〜ポスト構造主義の哲学者たちの難解な思想を暴力的なまでに要約しながら、それでいて限りなく正解に近い(と言ってしまうのもなんだが)。弱冠二十六歳の時分の著作と聞いて、驚嘆するよりない。柄谷行人の『探究I』。もっとも学術論文的に見えていた文章ではあるかもしれないが、淡々と隙なくゆっくり進んでいき、その先にある障害は全てなぎ倒されていく。ペンの力を感じさせる。

自分の知っていた「学術論文」とは全く違う、極めて魅力的な文章がそこにはあった。
そしてやはり、それは作者の天才性に負うところが少なからずあったんだろう。

# 自分がかつて東方プロジェクトに対して感じていたものは、実は神主に対する尊敬だった。東方を通じて神主を見ていたのだ。だから作者の輝きが信じられなくなると、その著作の輝きはそれに従って失われることになる。批評に対しても同様に、自分は批評文を通じて批評家そのものを見ている可能性があるのかもしれない。

そういう「面白い」「批評」を書きたい。「面白い」だけでは自分的には不満がある。「批評」でなければならない。いや、僕が見た面白さは批評であることと表裏一体であったはずだ。そして、文章自体から彼らに学べることはいくらでもあるはずだ。仮に筆者が天才でもない場合、よい批評を書ける可能性は低いかもしれないが、偉大なる先人たちから学ぶことはできるのだ。