湯浅学さんの講義に出席して

(第五回講義の出席後の所感です)

実はこの日は(会社がお盆休みだったこともあるのかもしれない)モチベが低かったのだが、その分、内容の濃さと自分がこれまで築いてきた批評観に対するインパクトと、自分の圧倒的な実力不足が明確に可視化されたことで際立ってダメージが大きかった。

湯浅さんの語り口は独特で、なんというか口先では結構軽い感じでカジュアルに語ってくれる感じなのが講義らしくなくて、実際佐々木敦さんとの掛け合いはタモリ倶楽部を彷彿とさせる、和やかで、マニアックで、ニッチで、誰得で、会場から自然に笑い声が上がるものだったのである。

そんな講義で自分がかかるショックを受けるというのは驚きだが、これは決して誇張ではなく、実際頭を殴られたような衝撃を受けたのだ。それは——今思うと、何でもないことなんだが——自分がいかに課題文に囚われていたかを思い知らされたからだ。

自分は課題文から自由に発想を広げてモチーフを定めるだけの教養に欠けているために、どうしても課題文に縋ってそこから何らかのヒントを求めようとした。しかし、それって全然重要じゃないんだ。この講義ではそう断言された気がした。

「課題文が重要ではない」というのは、もしかするとあまり受験に積極的に関与してこなかった人にとっては、「ふーん」程度のインパクトの無い主張に読めるかもしれない。あるいは「そうだよね〜、大事なことはそこじゃないよね」くらい思ってしまうかもしれない。しかし、ある程度受験戦争の前線で戦い抜いてきた者にとっては。あるいは、ビジネスの世界でコマとして働いているものにとっては。この主張はそれらの「軍隊」で教えられることとは真逆なのである。

「課題文」はすなわち「要求」であり、要求は要するに「必要条件」である。
もちろん、要求が曖昧でそこから必要条件を探りだす必要があるケースは少なからずあるだろうが、いずれにしても必要条件だ。コンサルやサポセンのように、「要求」ではなく「要望」を扱う業界においては、顧客からの「要望」はあくまで本質の一インスタンスに過ぎず、それを必要条件と直ちにみなすことは危険を孕むこともあるはずだが、それは、要求元との関係性と要望元との関係性はヒエラルキーが完全に逆転しているからである。当然ながら塾の課題となれば、ヒエラルキーとしては塾生側が下に位置する。したがって、それ(=課題文)は必要条件なのだ。

自分はそれを聞いて、自分がいかに課題文にしがみついていたかを思い知らされることとなった。と、同時に、批評を一体どのように書いていけばいいのかという、これまで頼りにしてきた基準までもが崩れ去っていくように思えた。次の畠中課題にどう取り組むべきなのか、自分は書き始めてからもしばらく悩み続けることになった。

 

ショックを受けたのはそれだけではない。
やはり、登壇した方々のプレゼンにも大きなショックを受けたと言わなければならない。自分が決して怠けていたり斜に構えていたり、あるいは本気を出さずに、課題に取り組んだつもりは今回についても全くなかったが、それでも登壇者たちの裏の思考は自分のそれよりも遥かに深かった。そう気づけたことを、ナイーブにポジティブに、「成長」だったと捉えればいいのかもしれないが、そんな慰めではどうにもならない程度にはショックだった。

次回、どう書けばいいのか…。

 

 

 

 

第6回講義を終えて

畠中実さんの講義だったが、結局は「読ませる文章」が大事だ、ということ。
それって批評以前の問題だろうけど、実際大概塾生の提出する論文が批評以前のレベルだってことなんだよね。だからわざわざそういうことを言ってくるわけ。ごく一部、そうでない塾生もいるんだろうけど。

そうなると自分のやるべきことというのは「読ませる文章」の練習ということになるんだろうか。確かに、自分が勝手に"あるべき批評"と思ってる批評モドキにすらなってないゴミをいくら無為に生産したところで、意味なんてない。しかし、ではその「読ませる文章」はどうやって勉強すればいいんだろうか。これはまた別個に、自分で学んでいくしかない。また、文学作品や批評文を意識的に読んでいくことで少しずつ磨いていくしかない。

そういうことなんだろうね。

幸い、前回までで、自分の中での「批評観」はとりあえず確立した。では、次はそれを実現させるために、まずはそのベースとなる文章力/構成能力を磨こう。人が読みたいと思う、読ませる文章を書けることを目指そう。それがこれから当面の自分の課題だ。

書いた後の反省

第6回・畠中実課題(「音響」という視座から新しい視点や解釈を与えること)

今回は執筆の時間がいつも以上に短く、推敲する時間がほぼ取れなかった。いうまでもなく完成度は低く、粗が目立つ。

  • 単語・用語の選択に必然性が乏しく、ブレがある。この意味ではこの単語しかないよね、というところで、いろいろな単語を書いてしまって読者を混乱させてしまう。
  • 説明しきれていないため、説得力に欠けるところが多い
    例えば「ネットは静寂のメディア」であるというところでも、
    もう少しYouTubeとかその辺を含むネットがどうして「静寂のメディア」なのか、については触れるべきだし、LINEやSkypeなどの通信用アプリについても同様。
    これらを考慮に入れたら全体の論理が崩壊する、というのでは困るし、それでは結局言葉遊びか詐欺になってしまうだけなのだが、そんなことはないはずなので、引き受けて説得力を増していきたい。
  • 「技術」不足。"こういう論理展開にすべき"というのができていない。
  • 適切なツール(表現、レトリック)が選択できていない
    ・こういうことが言いたければこういう適切な表現方法がある、というところで、それが選べていない。
    ・多分他の受講生はその辺が上手く、多彩な文学経験がベースになっている。自分はその辺りが明らかに弱い。
  • 段落の順番についても、説得力を持った配置になっていない気がする。

そういえば前回の佐伯さんの講評で「テーマや取材した作品に必然性があった」という選抜理由があったのを思い出した。どこかから持ってきた作品を無理矢理仕立て上げるのがいけないというわけではない。大事なのは、「結果としての論文が必然性を持っているかのように見せる」というところである。そういう身振りというか目配せというか、そういうものも間違いなく必要だ。

 

第6回 書きながら反省

事前に考えたこと

まずはネットででも何でもいいので、課題の周辺、背景を調べる
#なんでそれをこれまでしていなかったんだろう…。
#背景が余り必要でないものがあった?
#今回は意味を理解するために必須だったな…。

課題と作品は問いと答えでかなりの柔軟性はあるにしても、やはりまずは課題の意図を汲んでおいた上での変化球という認識は重要だろう。課題に囚われすぎるのは問題かもしれないが、意図を汲めてないのは論外

「はっきりしたメロディや和声を構成するよりも、音響の微妙なテクスチャーを重視した一連の音楽を指す。」
音響派(おんきょうは)とは - コトバンク
音響派と批評 - Togetterまとめ

まずは自分の中に沈潜して、
利用できそうな記憶をたどっていく必要がある。
数分では到底、探しきれない。
記憶をたどっていく必要があるのだ。

なんか、例になるような批評があればいい。それをまず読んでみる。
できれば既存の見方を崩すようなものがいい。
しかしそういう風に読み込んだ作品がないなあ。
技術でカバーする(=でっちあげる)しかないのか。

  • 批評の種になるような作品に日々触れ続けることが必要
    演劇、映画、音楽、文学、美術…。
    ただ批評を読むだけではなく、それが対象とすべき先端の生の作品に触れることが重要。結局それが必要になってくるんだよね。そして、今改めて小説家の文章を目にするとそれが極めて洗練されていることがしみじみわからされる。自分で書いてみると、ホントによくわかる。
  • 自分の生活・仕事で携わっている対象を使うこと(それが武器だ)

今回やるべきだったこと

畠中さんの課題の前提に、「音響派」という概念があった。
課題を見て、時代の流れが記述されている時に、下調べが必須になる。
これまで間に合ってたのだけど、今回「佐々木敦さんの本がどこの図書館にもない」という事態に。Kindleにもないし。テキトーに著作を買ってみたし、他の書籍も借りてみたけど、残念ながらどれも1990年代の書籍ばかりで全然ダメだった。佐々木敦さんの書籍の『ニッポンの音楽』がKindleにあったので即購入したが、「ニッポンの音楽」すなわち「J-POP」のことだったらしく、「音響派」という言葉が出てくる文脈ではなかった。

元々は「音響派」(そもそもこの概念に対して否定的な見方はあるんだが。渋谷慶一郎氏もそういうニュアンスか?)について追求し、さらに「音響派」の絡んだ作品(直接その音楽ではなく、あくまで”絡んだ”ところがポイント)をテーマに据えるというのが最も理想的だったと思うが、残念ながら全く時間が足りず。

超超今更なんだけど、やはりスピードというか、「書籍を揃える&それを読む」というのが必須である以上、まずは課題文をできる限り早くにしっかり読んで何を揃えるべきかのアタリを付けておく必要がある。

何で出だしが遅れたかというと、

  • 前回の課題発表後に読書会があり、その準備に時間がとられたこと
  • 読書会の結果として、哲学書、思想書にカブれたこと
  • ドゥルーズ柄谷行人ほかを読んでいた。
  • さらに、先週木曜の湯浅さんの講義で、批評観がうっかりひっくり返されそうになったこと。エッセイチックに、課題に囚われずに書くということが念頭にあった。
  • 2chで「映画音響論」などの書籍を勧められていたので、「音響派」の存在がキモであることに気づいたのがだいぶ遅れたこと(課題文に書いてあるのに…)

などが理由に挙げられそう(沢山ある)。

書く途中にとりとめなく考えていたこと

「論旨は重要ではない」かもしれないが、「論旨は一つの方針ではある」ことはおそらく間違いない。それなくしては一歩も先へと進むことはできない。まずは方向性として、論旨が必要となる。ラフスケッチのようなものだ。
しかし、ラフスケッチに拘る必要はない、というのが東さんの主張なのだ。
批評というのは恐らく、もっとダイナミックで、事前に予め定めたスタティックな設計図に従って書くものではない。それは身体性やリズムや型に関わりあい——例えば、作成された文章が、今後生み出す文章に自己言及的に絡み合っていくように——、設計図を思わぬ方向へとしなやかに変えていくのである。

 

評論とは何なのか…。何が言いたいんだ。ただ「言う」のではない。それでは批評にならない。概念を作るんだ。既存の思考に対峙する論を作るんだ。既存の思考に対して、自分の論を立体的に構築するんだ。

「レトリック」や「ディスクリプション」はそのための道具である。それを忘れてちゃ書けない。

自分の考えることについては、過去にこんな人達がこんなことを語っていた。
→それに対して自分はこういう議論を提示する。

つまりまずは(複数の書籍に対する)書評であるべきなのだ。
世界を書物とみなせば、批評とは即ち書評なのだ。
「もうひとハッタリ」というのは、「ハッタリ」たる既存の思想に対するもう一捻り、なのだ。

 



 

書きながら反省。

批評を書くためには…
元ネタというか、「批評的な作品」を適宜引用することが重要だ。
そこで引き出しの多さが問われる。そして自分的にはそれが一番致命的に不足している。他の受講生と比較して、圧倒的なビハインドになっている点。
文学作品に全く触れていないからなあ…。

仕方ないから以下のような試みをする。
自分の文学的に貧弱な記憶の中を辿るということ。
そしてそこで連想するキーワードを命綱のようにして辿っていく。
さらにそのキーワードをGoogleで検索して、ヒットするキーワードから広がる世界を伝っていく。批評家の方々は「ネットからは何も生まれてこない」とか、Googleやデータベースに対する批判的な見方があるけど、さすがにそんなこともないと思う(素朴)。

例えば、アンドレ・ブルトンオートマティスムは「誤り」や「しくじり」と関連性を持たせられないだろうか。
例えば、『不思議の国のアリス』のアリスが「不思議の国」にたどり着くきっかけはなんだっただろうか。
例えば『グレムリン』は時計が止まっていたためにギズモに水をやる時間を誤り、ギズムがグレムリン化してしまう。

すると"「この固有名を出せば勝てる」という固有名がある。体感としてわかってくる"(1)というのがこういうことかな?とちょっとわかる気がしてくる。
批評は引用のパッチワークとして自分をニュートラルにする

一つの目標としては「新しい概念」を作る。

新しい「言葉」である必要はない。既存の言葉の組み合わせに新しい意味を付与する。
そして、「型」に従ったものを作成する。

 

(1) 渡邉大輔さんの講義より

 

書いた後に反省。

レトリック、表現力、基礎的教養の差が圧倒的である。
基礎的な文学的な素養の差が露骨に出ている感じがある。

TODO: 

  • 引き続き「型」については様々な批評を読んで学んでいく
  • とにかく読書量が足りない。どんどん読んでいく。1日1冊くらいの勢いで。さすがに無理かなw
  • 各種思想のインストール
    フロイト
    ラカン
    ニーチェ
    ドゥルーズ
    マルクス

とにかく急がなければならないので、思想のインストールに関してはとにかく「効率最重視」でいく。例えば漫画でも、10分でわかる〜系でもいいし、コンビニに売ってる雑な文庫本でもいい。いきなり原典に当たる前にまず概要を掴んでおく方がよさそう。

講義を受けた後に反省。

とりあえず登壇者とか、言及された方々の良いところを真似ていこう。
どういう風に考えて作品を作ってきたか、ということについては、自分とは比較にならないレベルに練っていると思うのだ。
もちろん、材料をどれくらい持っているか、というのもあるが、その上で練ってくるわけだからそりゃまあ違ってきてしまうよね。

じゃあどういう風に練ってるの、というところ。
そのあたり、課題を投稿してきた受講生達が自らやってきたことは、これまでの講義では学びきれていないところ、あるいは講師がこちらに伝えきれていないところな気がする。

自分は熱心に講義や講評のメモをとってしきりに参照はしているのだけど、どうストーリーを紡いでいくかという具体的な課題の攻略に即したところについてはやはりこれまでの講義では補いきれない。そしてそこについては間違いなく、実際に課題をこなしてきている受講生のみなさんに倣うのがベストなきがするのだ。

そのために、じゃあ何をするかということだけど、
やはりしっかり作品を読んで、皆がどういうメッセージを作っているのか、そしてそれをどう組み上げてきているかというところを読み取っていかないといけない。

いろいろ辛いけど必須。

浅田彰の《クラインの壷》周辺の議論

ソーカル事件と『「知」の欺瞞』を背景とした、10年以上前のこの論戦をごく簡潔に追ってみようと思う。

クラインの壷》を原義通り曲面として認識すれば(1)、山形の説は至極尤もな主張と受け止められる。ラッパの口から"内部"へと曲面に沿って辿っていくと、細長い管を通過して壷の内側とラッパの外側の間の空間に至り、ラッパの外壁を伝うと壷の"外側"へとシームレスに脱け出し、壷の表面を辿ってラッパの口に再び戻ってくる。しかし、浅田の議論における「貨幣」が、かように複雑な経路を経て循環しているようには到底読めない。これは浅田のクラインの壷に対する誤謬に基づくものではないのか。これが山形の主張である。浅田はこの山形の批判を「初歩的な誤解に陥っているのではないか」(2)と一蹴するが、数学者である黒木もまた山形を支持した(3)のである。

ここで、トポロジーの専門家である菊池は「「球面」は数学的文脈では球の表面のみを意味するが、容器と見なす非数学的文脈では中身も込めた球体を意味することもあり得る」(4)とし、「《クラインの壺》=〈中身の詰ったクラインの壺〉。クラインの壺クラインの壺〉+〈中身〉。そして,この解釈の下で浅田 [A] は自然に読める」(5)と、一見アクロバティックとも思える解釈を提示し、浅田のクラインの壷に対する理解を正しいとして擁護する。

〈中身〉とは菊池の文章に詳しいが、「クラインの壷」が「円周」の軌跡により構成された面であるのに対し、その「円周」を「円板」に代えた時にその軌跡——円板を持ち上げて表裏を反転させ、元の場所まで移動させた時の軌跡——が構成する4次元図形を指す。クラインの壷を普通に曲面とみなすと、曲面上の点は面に沿って壷の外側にこぼれ落ちてしまう。しかし、浅田の《クラインの壷》を〈中身の詰まったクラインの壷〉とみなすことで、〈中身〉における点の存在範囲に自由度が与えられる。部分的には「外側」「内側」が区別される曲面に対し、その境界を塗り潰したというわけだ。こう解釈することで、《クラインの壷》における循環運動はシンプルになり、メビウスの輪の曲面上を辿る点のように、一周毎にいわば表裏を反転させつつ(この反転自体はさして重要とは思われないが)循環することになるのである。

菊池は「いやしくも『「知」の欺瞞』の「ローカル戦」を標榜するなら,少なくとも『「知」の欺瞞』程度に慎重かつ周到であるべき」(6)としてこの論戦に臨んだようだが、通常、曲面と解釈されるであろうクラインの壷を、「中身の詰まったもの」と解釈する余地があるとして浅田の主張を見事に数学的に立証した「証明」は、図形における直観的な外見は措いて、その連続性のみに鋭く着目するトポロジストならではの観点に基づくものであり、感嘆する他ない。

浅田が実際このように捉えていたのかどうかはさして問題ではない。重要なのは、デリダの用語を参照するならば「痕跡」(『構造と力』)の「本体」(浅田の思想)は都度、解釈によって新たに構築されるということであろう。

一つ、この論戦においてとりわけフィーチャーされていない論点としては、「クラインの壷」を持ち出す必然性であるが、構造とその外部の二元論を超える立場を追求してきた『構造と力』において、内壁に沿って進むといつの間にか外に出ており、外壁に沿って歩んでいくといつの間にか内壁にたどり着き、内と外が二元論的に分別できない「クラインの壷」が、脱コード化された近代社会を解釈する上でこの上なく魅力的なモチーフであることは誰の目にも納得できるのではないだろうか(7)。例えば、ただの円筒では、その表面を移動する点は内と外を永遠に循環し続けはするものの、そこにおいて「内」と「外」はその両端において明快に区切られており、二元論を超える運動を象徴するモチーフとは成り得ないであろう。

 

(1) 「クラインの壷」は曲面からなり(元々「壷」も「面」の誤訳により一般化してしまった言葉らしい)であり、通常は曲面として解釈される。
(2) 浅田彰【『山形道場』の迷妄に喝!】』
(3) 黒木玄『浅田彰のクラインの壺について
(4), (5), (6) 菊池和徳 『浅田彰『構造と力』の《クラインの壺》モデルは間違っていない
(7) 菊池の解釈では、クラインの壷の内部のみを循環するという形になってしまうのではあるが。

 

講義を受けて所感

サスペンスフルな批評として「小形式 image-action petite forme」と、ディスクリプション(場面描写)が必要だったかなという。

しかし登壇者の論考にそれがあったかというと?講師の三浦哲哉さん的には多少物足りなさがあったのかもしれないな。というより、三浦さんが選べばまただいぶメンツは違ったんだろう。横山さんは多分登壇しただろうが。

 しかしディスクリプションというのはアニメの分析にはやや向いていない気がする。濃密な対象と空間と動作を描くのには必須だろうが。その意味で今回のテーマ選びは最初から失敗していた感もある。

#まあ、映画論だったらそりゃアニメじゃないよなあ…

 

それはともかく、今回印象付けられたのは

自分が読んで面白くないものは書きたくない。読者の体の中でもう一度何かを立ち上げる…それに相当するものを書けるか。次の何かに"飛び火"する。そういうものじゃないと書く意味がない。

30年後に読まれる本を書きたい。
一度忘れた後に、文章の運動で読んだ人の中に身振りが立ち上がるというか。

 という三浦さんの発言。このあと、オートマティスム/ブレッソンの話に繋がっていったのだが、三浦さんは非常に控えめな姿勢で発言をされるので、あくまで「自分が書く姿勢」として以外積極的には語らずに留めているのだが、優しく控えめで淡々とした口調は、その強い信念と自信とパッションとを覆い隠せなかった。講師としても——直接口に出して発言はしないものの——そういうスタンスでいらっしゃると強く感じた。

そして、以下のような発言が印象に残った。

批評はとりあえず全開まで、作品の魅力を読み取って解釈してほしい

そう解釈するとこの映画は面白いんですかね?

ここで、自分の中でぼんやり形成されつつあった"批評観"がここに来て三浦さんの言葉を媒介にその一面が固定された感じがあったのだ。そう、「批評とは面白くなければならない」のだ。

(いうまでもなく、この三浦さんの発言と「批評とは面白くあるべき」という主張の間には一定の懸隔がある。三浦さんの発言を受けて「したがって批評とは面白くなければ」とみなすならば、勇み足の誹りは免れないだろう。)

三浦さんの発言は、あくまで「批評は作品の無際限の解釈の可能性の中で、最大限に魅力的なものを汲むべき」という趣旨なのだが、これまでの東浩紀さん、渡邉大輔さんの講義においてそういう指摘は(意外?にも)無かった。

 三浦さんは食にも関心を強く持たれている。そして三浦さんにおいて、サスペンスと食もまた遠いものではない。曰く「食もまた小形式でしかありえない」と。人間の口が食べ物を全体として一度に摂取することはできない構造になっており、少しずつ部分に切り分けて食べていくしかない。つまり「味」において全体構造の鳥瞰は原理上不可能である。押し迫る味に対して人は「完璧に受動」であり、一口ごとに「身体が都度励起される」、「ディテールしかない世界」に魅力を感じているという。
批評においても三浦さんは食同様の価値観で捉える。「僕の中では鯵と同じなんですよ」

だから、提出された論考からの選択基準が「ネットに転がっていても読むもの」
であり「身体にくる」ものであるということはほぼ必然だっただろう。そして、そのような身体感覚と結びつける批評に対する審美基準は、批評というものが現代社会において置かれている立ち位置を意識していないとは言えないだろう。