第6回 書きながら反省

事前に考えたこと

まずはネットででも何でもいいので、課題の周辺、背景を調べる
#なんでそれをこれまでしていなかったんだろう…。
#背景が余り必要でないものがあった?
#今回は意味を理解するために必須だったな…。

課題と作品は問いと答えでかなりの柔軟性はあるにしても、やはりまずは課題の意図を汲んでおいた上での変化球という認識は重要だろう。課題に囚われすぎるのは問題かもしれないが、意図を汲めてないのは論外

「はっきりしたメロディや和声を構成するよりも、音響の微妙なテクスチャーを重視した一連の音楽を指す。」
音響派(おんきょうは)とは - コトバンク
音響派と批評 - Togetterまとめ

まずは自分の中に沈潜して、
利用できそうな記憶をたどっていく必要がある。
数分では到底、探しきれない。
記憶をたどっていく必要があるのだ。

なんか、例になるような批評があればいい。それをまず読んでみる。
できれば既存の見方を崩すようなものがいい。
しかしそういう風に読み込んだ作品がないなあ。
技術でカバーする(=でっちあげる)しかないのか。

  • 批評の種になるような作品に日々触れ続けることが必要
    演劇、映画、音楽、文学、美術…。
    ただ批評を読むだけではなく、それが対象とすべき先端の生の作品に触れることが重要。結局それが必要になってくるんだよね。そして、今改めて小説家の文章を目にするとそれが極めて洗練されていることがしみじみわからされる。自分で書いてみると、ホントによくわかる。
  • 自分の生活・仕事で携わっている対象を使うこと(それが武器だ)

今回やるべきだったこと

畠中さんの課題の前提に、「音響派」という概念があった。
課題を見て、時代の流れが記述されている時に、下調べが必須になる。
これまで間に合ってたのだけど、今回「佐々木敦さんの本がどこの図書館にもない」という事態に。Kindleにもないし。テキトーに著作を買ってみたし、他の書籍も借りてみたけど、残念ながらどれも1990年代の書籍ばかりで全然ダメだった。佐々木敦さんの書籍の『ニッポンの音楽』がKindleにあったので即購入したが、「ニッポンの音楽」すなわち「J-POP」のことだったらしく、「音響派」という言葉が出てくる文脈ではなかった。

元々は「音響派」(そもそもこの概念に対して否定的な見方はあるんだが。渋谷慶一郎氏もそういうニュアンスか?)について追求し、さらに「音響派」の絡んだ作品(直接その音楽ではなく、あくまで”絡んだ”ところがポイント)をテーマに据えるというのが最も理想的だったと思うが、残念ながら全く時間が足りず。

超超今更なんだけど、やはりスピードというか、「書籍を揃える&それを読む」というのが必須である以上、まずは課題文をできる限り早くにしっかり読んで何を揃えるべきかのアタリを付けておく必要がある。

何で出だしが遅れたかというと、

  • 前回の課題発表後に読書会があり、その準備に時間がとられたこと
  • 読書会の結果として、哲学書、思想書にカブれたこと
  • ドゥルーズ柄谷行人ほかを読んでいた。
  • さらに、先週木曜の湯浅さんの講義で、批評観がうっかりひっくり返されそうになったこと。エッセイチックに、課題に囚われずに書くということが念頭にあった。
  • 2chで「映画音響論」などの書籍を勧められていたので、「音響派」の存在がキモであることに気づいたのがだいぶ遅れたこと(課題文に書いてあるのに…)

などが理由に挙げられそう(沢山ある)。

書く途中にとりとめなく考えていたこと

「論旨は重要ではない」かもしれないが、「論旨は一つの方針ではある」ことはおそらく間違いない。それなくしては一歩も先へと進むことはできない。まずは方向性として、論旨が必要となる。ラフスケッチのようなものだ。
しかし、ラフスケッチに拘る必要はない、というのが東さんの主張なのだ。
批評というのは恐らく、もっとダイナミックで、事前に予め定めたスタティックな設計図に従って書くものではない。それは身体性やリズムや型に関わりあい——例えば、作成された文章が、今後生み出す文章に自己言及的に絡み合っていくように——、設計図を思わぬ方向へとしなやかに変えていくのである。

 

評論とは何なのか…。何が言いたいんだ。ただ「言う」のではない。それでは批評にならない。概念を作るんだ。既存の思考に対峙する論を作るんだ。既存の思考に対して、自分の論を立体的に構築するんだ。

「レトリック」や「ディスクリプション」はそのための道具である。それを忘れてちゃ書けない。

自分の考えることについては、過去にこんな人達がこんなことを語っていた。
→それに対して自分はこういう議論を提示する。

つまりまずは(複数の書籍に対する)書評であるべきなのだ。
世界を書物とみなせば、批評とは即ち書評なのだ。
「もうひとハッタリ」というのは、「ハッタリ」たる既存の思想に対するもう一捻り、なのだ。